『千と千尋の神隠し』の原点、遠山霜月まつり
霜月祭りの現場で、必ずささやかれる「噂」があります。
「この祭りがね、あの『千と千尋の神隠し』の原点なんだって・・」
宮崎駿監督が感銘をうけた神を迎える祭り
『千と千尋の神隠し ロマンアルバム』の、水民玉蘭さんの記事にはこうあります。
ところで、神々が湯治に訪れるというこのアイディアにはモデルとなった祭りがあるのだという。長野県南部の天竜川流域、南信濃村と天龍村に伝わる霜月祭(地域によっては違う名称で呼ばれる)がそれで、宮崎駿監督はテレビでこの祭りの存在を知って強い影響を受けたのだそうだ。 (同書p128)
水谷さんが天龍村と上村を混同しているかどうかの詮索は別としても、「日本中の神様がお湯に浸かりにやってくる」というモチーフにおいて、確かに映画と祭りは重なっています。宮崎監督自身も、インタビューで次のように明言しています。
――小さなおふろに神様が入るというのは何か参考にされたものがあるのでしょうか。
宮崎 「霜月祭といって、日本中の神様を呼び出してお風呂に入れて元気にするっていう非常に面白いお祭りがあるんです。静岡とか岐阜の方にあるお祭りなんですけどね (※注1)――そういうものを参考にされた。
宮崎 「ええ。僕はそういうものを研究しているわけじゃないんですけど、大好きですから。 」(同書p116)
宮崎監督がテレビでどこの祭りを見たのかは別として、「千と千尋」の原点の一つが霜月祭り(霜月神楽)であることは、噂ではなく事実のようです。
生まれ清まりの映画?
霜月祭りは「神様にお湯を差し上げる」祭りであるといわれます。あえて学問的に言うなら、「湯を浴びて穢れを祓い、清らかな魂を得て生まれ変わる」祭りです。
つまり全国の神々は、一年の垢を落としてリフレッシュしたいがために、手ぬぐい片手にはるばる遠山までやってくるわけです (※注2) 。
神々にとって霜月祭りの舞殿は、まさしく最高の銭湯です。・・・もっとも、湯上りの神様を待っているのは牛乳ではなく、ダイコンもしくは豆腐のカスですが。
千尋は、銭湯「油屋」での体験を経て、たくましく生まれ変わります (※注3) 。
彼女の活躍を見守ったわたしたちも、「良かった~」と感動で顔を上気させながら、スクリーンを後にします。
映画館から出てきた直後は、見慣れたはずの町の風景が、なんだか新鮮に感じられます。
銭湯・映画館・霜月祭り。どれもみな、一種の「生まれ清まり」の場なのかもしれません。
「千尋」はどこから?
和田系の霜月祭りでは、神を送る「ひいな降ろし」の段で、舞手が炉の5隅(西に二回)に白紙をちぎって置き、観客と「何尋?(何拾う?)」「千尋(チリ拾う)」と掛け合いながら拾う所作があります。
こうした舞を見てしまうと、「映画の主人公の名前はここから来ているのかも」なんて、夢を膨らませたくなったりします。
遠山は「異界」?
千尋は暗い通路を抜けて、神の世界へと迷い込みます。遠山郷の場合でも、村に入るためには必ずトンネルを抜けなければなりません。
照明がなく片側通行の狭いトンネルもあり、これらは昔ながらに「隧道」と呼んだほうがしっくりきます。こうした隧道たちが、「秘境遠山郷」の演出に一役買っていることは間違いないでしょう。
トンネルは、この世とあの世(=異界)をつなぐ通路。
トンネルのあちらとこちら、どちらがこの世でどちらのあの世かは、人それぞれ違うでしょう。
けれどトンネルがしばしば「産道」にも例えられることを考えれば、日本最大の山脈に抱かれた遠山郷は、母なる大地の「子宮」にあたります。
だからこそ、「生まれ清まり」の霜月祭りがこんにちまで伝承されている、のかもしれませんね。
※1…静岡県の霜月神楽(湯立神楽)としては、静岡市の清沢神楽、佐久間町の花祭り、御殿場市沼田の湯立神楽などがあります。岐阜県の霜月神楽については、ご存知の方は情報をお寄せください。 ※2…「「神聖で清らかなはずの神様が、どうして垢で汚れるの?」と疑問に思った方は、スルドイ。 民俗学の学説の一つによれば、「穢れ」は「ケ枯れ」であるといいます。ケとは、日常生活を過ごすためのエネルギー。神様も日ごろ人間の願いばかりかなえていると、自分のエネルギーが枯れて疲れてしまう。そこで「ひとっ風呂浴びてくるか」となるわけです。 けれどこの「ケ枯れ」論は、言語学者などから批判意見が投げかけられています。 ※3…ただし宮崎監督本人は、「この映画は成長物語ではない」と言っています。(同書p117) |