遠山の霜月祭りのおこり
この祭りがいつ起こったのか、地元の伝承では平安時代の終わりとも鎌倉時代ともいわれますが、定かではありません。
しかし、霜月祭りをおこなう神社の多くが八幡神社であることからすれば、この遠山郷(江儀遠山庄)が 鎌倉時代に鶴岡八幡宮寺(つるがおかはちまんぐうじ)の信州唯一の神料地(しんりょうち)であった歴史と無関係ではなさそうです。
遠山氏の改易(かいえき)と百姓一揆伝承(ひゃくしょういっきでんしょう)
遠山郷を支配していた遠山氏は、元和4年(1618)に相続争いを理由に、幕府によって改易(お家取りつぶし)になりました。
この争い は領民をも巻き込んで、のちに百姓一揆の伝承を生むほどに熾烈(しれつ)をきわめたようです。
改易の直後あるいは寛文年間(1661~72)になって疫病が大流行すると、村人たちはその 原因を一揆で滅ぼした遠山氏の祟り(たたり)だと考えて、従来の祭りに遠山氏の鎮魂(ちんこん)の儀礼を加えたと言い伝えています。
その伝承どおりに、霜月祭りには「遠山八社神(はっしゃがみ)」などとよば れる遠山氏をかたどった御霊面(ごりょうめん)が登場します。
祭りそのものが御霊を鎮めることに重きをおいているのです。
実際に木沢八幡神社では、元和から寛文年間のころに遠山八社神の面を追加しています。
祭りの内容も遠山氏の鎮魂の祭りへと大きく変化したようです。
八幡神社でも、たとえば上町・木沢・下栗(八幡神社を合祀)の神社は「遠山八社神」ともよばれたように御霊を合祀しています。八幡信仰とかかわり深い御霊信仰が色濃く表れているところに、この祭りの大きな特徴があるのです。
霜月祭りの広がりと変化
最初、遠山八社神を合祀する八幡神社で開催された祭りは、江戸時代の中期以降に八幡神社以外の神社でもおこなわれるようになりました。
それにつれて、遠山氏の御霊面以外の面が奉納されるようになります。
とくに江戸時代末期から明治時代にかけて、上町系をのぞく神社では、村内の神々の面が続々と追加されていきました。
飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)の流行、戦争や共有山をめぐる争いなどの社会不安のなかで、村人たちは身近にまつる神々に願をかけ、それが叶うことを願い、あるいは叶った報謝(ほうしゃ)として面を奉納し、そしてそれを着けて舞ったのです。祭りが人びとの祈願を受け止めてきたことがわかります。